「下請」という概念について 辻井啓作氏
(1)あえて「下請」にこだわる独立開業研究会
下請という言葉は、あまり良い意味でなく使われることが多いようです。ですから、発注企業は下請企業のことを協力企業と呼び換えたり、行政の外郭団体の下請企業振興協会の都道府県の窓口は中小企業振興公社等の呼び名に変わったりしています。
しかし、中小企業診断士独立開業研究会では、あえて「下請」にこだわりたいと考え、実践してきました。その理由を紹介したいと思います。
(2)下請構造=ダメ ではない
下請企業というと、親会社(発注企業)の無理難題に苦しめられている中小零細工場というイメージです。値引きをはじめとする無理な要求に応えて四苦八苦し、果ては製造拠点の海外移転のあおりを受けて経営破綻、という感じでしょうか。
実際にそうした工場も多いのですが、一方で、優良自動車メーカーの部品の製造を行い続けて自らも一部上場まで大きくなったメーカーや、大手コンビニエンスストアの弁当工場として拡大し、上場している企業も存在します。また、下請として身につけた技術やノウハウをもって自社ブランドを立ち上げ、成功している企業も少なくありません。
(3)下請構造は自然にできるもの
そもそも、下請構造というものは、誰かが設計したものではなく、自然に発生するものです。儲かる仕事をしている人間(企業)には、おこぼれを求める人間(企業)が集まってくるものなのです。
何となく自動車メーカーや電機メーカーのイメージが強い下請構造ですが、最近ではITやコンテンツ分野の下請構造のほうが厳しく重層的だといわれます。構造が未成熟であることが原因ですが、この混沌とした状況は、新たに出現した儲かる分野に多くの企業が一気に参入したから生じたと思われます。これから、これら分野の下請構造の整理が進むと考えられますが、このような新しい分野での下請構造の発生は、それらが誰かの意思ではなく自然発生的に生じるものだということを示していることに他なりません。
自然に発生するものに対して、是非を問うことはナンセンスです。発生することを前提として、それをどう活かすかを考えることが重要であることは言うまでもありません。
(4)下請のメリット
もちろん、こうした下請構造は日本において顕著に見られる特色だという声もあります。確かに諸外国に比して、日本の垂直的分業は製造分野でも流通分野でも複雑で重層的です。
その理由については、ここで考察することはありませんが、こうした下請構造を構築しつつ、その中で長期安定的な取引がなされてきたことが日本の高度成長を支える一要因になったことは広く知られています。
理由は、多数の主体による分散的な投資がなされること、専門分野に特化することで技術の発達がなされること、生産量の増減などのリスクに対応しやすいこと、低コストで労働力を確保することができること、などでしょうか。
また、それに長期安定的な取引による取引コストの削減や、技術移転(指導)による技術力の向上も要因に加わるでしょう。
しかし、私見ではありますが、それ以上に重要な要素は、いかに長期安定取引といっても、所詮は下請取引関係であることから、常に「仕事を切られる」危機感をもって仕事をする環境にあったことではないかと考えています。おなじ自動車一台を考えてもアメリカの自動車を作るのに危機感を持って取り組んだ経営者が、自動車メーカーと材料のメーカー数社、ガラスメーカーとタイヤメーカーの社長くらいだとすると、日本の車では、それぞれの材料、部品加工等の工場の社長、数百人が危機感を持って、場合によっては納期前に徹夜をして携わっているのです。
最近では、その関係が馴れ合いになっているメーカーもないではありませんが、少なくとも高度成長期にはこのような緊張感のある関係が、日本の成長を支えていたのではないでしょうか。
話が長くなりました。ここで、下請構造について賞賛しても仕方がありませんので、下請側のメリットに戻りたいと思います。
下請をする側のメリットとして、エンドユーザーに対して営業をせずとも仕事が得られる、ということがあります。現実問題として営業力も、信用も、また対価が得られるだけの商品やサービスも満足にもっていない企業や個人としては、「下請に甘んじている」理由の大半がこのことだと思われます。ですから、このことはメリットというより、下請の定義みたいなものかもしれません。
しかし、下請にはそれ以上のメリットがあります。それは、発注元から仕事の進め方についての指導が受けられること、そして仕事の内容について発注元がチェックし、責任を負ってくれることです。仕事に不慣れな、企業や個人にとって、これほど有難いことはありません。このことにより、下請は仕事をしながら、仕事を覚え、技術を蓄えることができるのです。
その反面、利益が薄いことや、取引条件を発注企業に決められているなどのデメリットもあります。それでも、仕事に対する経験の薄い時期には、メリットのほうがはるかに大きいと考えられるでしょう。
こうしたメリットから、下請取引は、企業同士の徒弟制度だと解釈できます。徒弟制度では、一人前と認められるまでは安い賃金で働きます。そのかわりに技術や仕事のノウハウを指導され、身につけることで独立のチャンスを得ることができます。下請取引も同様に、「鍛えてもらう」機会なのです。
(5)脱下請より超下請
「脱下請より超下請」というのは、私が独立前に行政の外郭団体に勤務し、下請企業の相談にのっていたときのキーワードです。
当時は、親会社の言うがままに取引条件を決められる下請企業より、小さくても自社ブランドの製品を開発して脱下請を図る、というのが世の中の方向性、行政や私の勤務していた機関でもそのように啓蒙を行っていました。
しかし、私自身はそれに違和感を感じていました。というのも、少数ではありますが下請でありながら、私の目から見ればかなりわがままな取引条件を押し通して利益を上げ、活き活きとしている企業や、親会社からの要求に対して別に困ったそぶりもなく対応できる企業もあったからです。つまり、下請であっても優良企業は存在していたのです。
こうした企業は特定の分野に技術面で特化し、親会社の意向を先回りして実現します。仕事の打ち合わせの際も、常に提案を行い、話をリードしています。これらの企業は、下請として親会社に「鍛えてもらう」期間は、はるか昔に終了し、逆に親孝行の時期に入っているので、自由闊達に取引ができるのです。
これこそが下請企業が目指す姿だと私は考え、密かに「超下請」と名づけました。
「脱下請」に反対の理由をさらに続けます。
先に紹介したような企業は脱下請などという考えを持っていません。経営に困っていないからです。また、自身がリスクをとる場所はマーケティングではなく技術開発だと考えているからでもあります。もちろん、中には自社ブランドでの製品開発を始める企業もありますが、この場合でも、「一部の下請」→「全体の下請」(発注側から見た場合には「丸投げ」になる)→「自社製品化」という過程を踏んでいるので、リスクはかなり限定できるのです。
それに対して、「脱下請」を考える企業は、現状があまりうまくいっていないケースが大半です。極端な言い方かもしれませんが、直接の取引先(発注企業)の満足度を高めるマーケティングができない会社が、直接取引きをする訳ではなく、目に見えないエンドユーザーの気持ちを掴めるマーケティング力があるのか、答えは明らかです。
もちろん、脱下請の掛け声のもと、全国で数千、数万の下請中小企業が製品開発を行えば、中には運良く脱下請を果たせる企業もないではないでしょう。こうした企業が成功事例として紹介されるので、余計に脱下請の号令に拍車がかかったのです。しかし、それはあくまで確率の問題で、実際には多くの企業が製品開発に失敗しているのです。
ですから、下請企業がまず目指すのは、「超下請」であり、「脱下請」ではない。しかし、超下請になれるなら、脱下請の可能性も見えてくる。というのが私の持論です。
もちろん、自分自身もそうあり続けたいと考えています。
(6)最終的に目指す姿が下請である必要はない
ただし、誤解のないように申し添えますと、最終的に超下請として成長せよ、と言っているのではありません。経験の少ない分野では、まず下請けとして力を蓄え、さらにそれを成長させた上で、どのように発展していくかを決めるべきということです。
中小企業診断士として独立する際にも、勤務時代に十分に力を蓄えている人材が改めて下請をする必要はありません。しかし、資格を取っただけであったり、組織の中でノウハウを蓄えてもそれを取引として活かしたことがない場合には、まず下請をして、力を蓄える必要があると考えています。どれほど机上で学んでも、実際に仕事をしてみないことには、それが使える知識かどうかは不明だからです。
そう考えると、下請構造は、業界への新規参入に対して、非常に便利なシステムだとも考えられます。まず、下請として経験を蓄積し、自身の適正を見出すことが多くの人にとっての独立成功への早道だと考えています。 明確な下請構造がない中小企業診断士業界、ここで問題が発生します。それは、中小企業診断士業界の下請構造はあいまいで、実際にはどこで仕事が発生しているかは、なかなかわからないのが実情だということです。あいまいな世界にはルールも存在せず、また下請金額も驚くほど低額になりがちです。
中小企業診断士独立開業研究会は、こうした問題を解決するため、下請仕事の窓口となること、下請として仕事を得るために必要な心構えや仕事の進め方、仕事の請け方などを学ぶことを目的に開催しています。
この研究会を継続することで、下請を通して真に独立される中小企業診断士が増え、そのことがさらに研究会に還元されるしくみが確立することを切に願っています。
2008年 6月度 大石幸紀 講演レポート
1.中小企業診断士取得のきっかけ
中小企業診断士取得の動機は、同期社員の中で一番出世したいという出世願望そのものでした。同期の経理担当者に嫉妬するくらい優秀な奴がいたので、仕事だけでは彼に勝てないという現実が分かっていたのでしょう。周囲に診断士取得を宣言してからは、挫折したと思われたくないというプライドの固まりで勉強を続けました。勉強を続ける内に、この苦労をなんとか形にしないと、今まで勉強に費やした時間は一体何だったのだ、という思いが強くなり、合格に対する執念が高まりました。その結果、1年目で1次試験合格、2次試験不合格、2年目に2次試験合格と、2年間で中小企業診断士になることが出来ました。2002年4月の事です。
2.上場企業を辞めるまでの苦悩
私がある上場企業に入社した頃、経理担当者は全国に所在する全ての営業所に配属されていました。各営業所では経理担当者は入社年度に拘わらず、営業部長や営業所長の右腕として番頭さんのようなことを任されました。日々営業マンからの商法、税法、社内ルールに関する相談を受け、知識と経験から回答するという一種のコンサルタントの様なことを、どの経理担当者も行っていました。私もその企業の経理担当者の一員として、誇りを持って取り組んでいました。当時の私は相当生意気だったと思います。
ところが、入社5年ほどしてから、間接部門の合理化を目的に、経理担当者を東京と大阪の二個所に集結させ、社内郵便や電子メール、電子承認システムを使って全国営業所からの経理伝票を1個所に集めることで、まとめて複数の営業所の決算業務を行うという、シェアードサービスを導入するようになります。私の居場所も、営業担当者と同じフロアから、経理担当者だけを集めたフロアにと異動になります。以前は、営業所の中では若手の男性経理マンは一人だったのが、大勢の経理マンが集まったフロアの中で、大勢の内の一人になってしまい、なにか存在感の喪失のようなものを感じざるをえませんでした。私は、港区の本社ビルで高崎や新潟の営業所を担当するようになります。新幹線で月に1度か2度訪問する自分を、営業所の皆さんは本社からのお客さん、というように丁寧に扱ってくださいました。自分にはそれが寂しく感じられたのを覚えています。
さらには、自分はポストバブル期の入社だったのですが、バブル期の大量入社組の先輩が大勢いらっしゃいましたので、この方々が全員役職者になるまで自分はずっと下端として今と同じ仕事をする(この考えは、単なる妄想でしたが)、そう思うと当時は閉塞感を感じずにはいられませんでした。
そんな会社の変化の一方で、自分は中小企業診断士を取得したことで、独立開業して活躍している診断士の方々とお付き合いさせていただくことで、中小企業診断士として生きることにあこがれを感じ始めていました。かといって、自分に独立中小企業診断士として食っていけるだけの能力があるとは思えません。まぶしく見える世界と、捨てられない現実の狭間で、約2年間独立するか否かを悩み続けます。今思えば不思議なのですが、転職という選択肢は自分の中にはありませんでした。
3.独立開業研究会が背中を押した
中小企業診断士になって、いくつかの研究会に参加します。取得当時は好奇心の塊で、様々な研究会に顔を出します。この独立開業研究会にも参加し始めます。たくさんの研究会に最初は所属し、参加していて自分の興味ある分野ではないと思うと足が遠のきます。こうして自分の居心地の良い研究会が残りました。
この独立開業研究会は、前半が活躍されている独立中小企業診断士の先生をお招きしての講演会、後半は講師の方を囲んでの懇親会で構成されているのですが、前半の講演はとても勉強になりましたが、それ以上に後半の飲み会を楽しみにしていました。なぜなら、自分よりも2,3年前または同期や後輩の診断士取得者で独立された方が、現在どのような仕事をされているのか、どれくらい稼いでいるのかを、二人きりになったときにずうずうしくも教え頂いていたからです。当時、中小企業診断士は食えない資格なんていうことが、まことしやかに語られていました。この噂によって、自分は独立に踏み切ることが出来ないと言っても過言ではありませんでした。しかし、そのような噂は少なくとも独立開業研究会に参加していた中小企業診断士には当てはまりませんでした。皆さん、それぞれの分野で会社員の時の稼ぎを超える年収を、独立3年間までに獲得されていることを知ったのは、自分にとって大きな勇気となりました。
4.最終的に独立に至った要因
独立開業研究会の皆さんとの触れ合いを経て、ついに会社に中小企業診断士として独立する旨を伝えます。本当は2003年の12月中に、上司に退職を告げる予定だったのですが言い出せず、結局年明けの2004年早々に伝えることになります。課長は、私の上司になってたまたま3ヶ月目の方で、巡り合わせが悪かったです。申し訳ないことをしました。
最終的に独立に至った要因は次の通りでした。
・妻の許可は早い段階でもらっていた。反対は一切無し。子供がいないこと、妻も働いていたことも大きな要因です。
・独立開業研究会で食えている同世代の独立中小企業診断士に触れあっていた。
・32歳で独立して失敗しても、35歳までなら再就職できるのではないか、という勝手な期待があった。
・上場企業を去って失うもの(将来の地位と年収、退職金など)は、今後も保証されているとは思えないと自分を納得できた。
・最後の決め手は、悩んでいる自分に終止符を打って楽になりたかったのも事実です。悩みすぎて今振り返ればノイローゼ寸前だったように思います。
5.独立1年目 (平成16年4月~17年3月)
2004年4月16日に自分の独立生活はスタートします。当時の自分を表すキーワードは「びびり」でした。「この仕事に失敗したら、自分が独立したこと自体も失敗してしまう。」今となっては、そんなことはない、この仕事がダメなら、また別があるさ、位に笑いとばせますが、当時は全ての仕事が初めての体験で、そんな風にびびりながら仕事をしていました。仕事のご依頼をいただくと、嬉しいはずなのに、本当にできるのだろうかと不安さの方が大きかったように思います。お礼を伝える笑顔は、当時は引きつっていたと思います。このような、自分に、この独立開業研究での辻井啓作さんの教えはとても役に立ちました。それは、「即座に無理と答えた依頼以外は、全て受けろ。人間は絶対無理なことは即座に無理と答える。一瞬でも、できるかなと迷ったということは、できるのだ。だから、受けろ。」という教えでした。この教えによって、私はびびりながらも依頼を受けた仕事は、ほぼ100%お引き受けしました。 今、自分が仕事を人にお願いするようになって、この言葉が信実であったことが良く分かります。それは、仕事を発注する側も、その人ならできると思って声を掛けていると言うことです。その仕事の経験のある先輩が、こいつならできるだろうと判断して依頼をされているのですから、最初から絶対に無理という依頼は実際にも少ないのです。ちなみに、全ての仕事をお引き受けして、全てを完璧にこなしていたか、といいますとそんなことはありません。調査の仕事で、どうしても納期に間に合わなかったことがありました。その時は発注者の方が、他の方に声を掛けて最後には助けてくれました。もちろん、その方にお支払いするフィーを捻出するために、私のフィーは大きく減額されたのですが、もちろんそれは自分が悪いのですから納得の上です。なによりも、助けてくださったことに対する感謝の念のほうが大きかったです。
独立当時、自分の生活を支えてくれていたのが、自分が中小企業診断士に合格させていただいたTBC受験研究会さんでした。社長の山口さんからは、私が前の会社に在席している時から、講師としてTBCで教鞭を執らせていただくことを約束いただいていました。また、TBC受験研究会では、講師以外に通信講座の企画と運営も請け負います。週の平日の内、2日通って通信講座の運営をしていました。TBC受験研究会さんのお陰で、自分の中小企業診断士としてのスタートは金銭的な不安がない安定したものでした。
TBC受験研究会さん以外での中小企業診断士としての活動としては、現在も事務局長を務めるNPO 経済活動支援チームに参加し、沖縄の食品工場事業計画作成等に従事させていただきました。当時の代表理事の山北浩史さんや現代表理事の高橋順一さん、大寺規夫さんというスーパーマンのような人の側で仕事をさせていただく機会に恵まれ、自分の実力なさを嘆くと共に、中小企業診断士の仕事のやり方を吸収させていただきました。
その他には、独立開業研究会の設立者である辻井啓作さんが社長を務めるリサーチ会社、ともえ産業情報さんが受注された調査業務の下請けを、数多くさせていただきました。調査業務を進める上でのアポイントの取り方、文章の書き方や、ヒアリング調査の仕方等をハンズオンで辻井啓作さんに指導いただきました。独立して半年ほど経ったときに私が感じていたときは、世の中捨てたものではない。世の人は自分の想像以上に親切である、ということでした。そのこと知って以来、自分自身も他人に親切にしてあげられるようになった気がします。
6.独立2年目(平成17年4月~18年3月)
2年目になり、ある先輩中小企業診断士との出会いが、自分の中にできつつあった独立事業者としての方向性を変えました。当時の自分は、セミナー講師や昇進試験の問題の作成、人事評価のためのアセスメントなど「社会人教育産業への従事」に事業ドメインが傾いていた時期でした。しかし、この先輩診断士の影響から、やはり中小企業診断士として独立したのだから、中小企業診断士に求められている社会的な意義に立ち返り、中小企業を対象としたコンサルティングで生計を立てられるように道を切り開くべきだ、という結論に至ります。
しかし、そう思うものの、どうすればコンサルティングスキルを身につけることができるのかは分かりませんでした。俺に付いてこいばりの人に付いていって「報酬は、俺の評価で決める」という条件で2ヶ月間働き、その結果「評価は0。従って報酬も0」という宣告を受ける経験もしました。この方からの仕事を継続してお手伝いすることを期待して、TBC受験研究会の契約を終了させていただいていましたので、精神的ショックとその後の不安感は大きかったことを今でも覚えています。
そのような状況下で自分が幸運だったことは、事業再生を30年以上担当され、その90%以上を復活させた税理士でコンサルタントの森井義之先生と出会ったことでした。森井先生のセミナーに参加させていただき、先生が構築されたPBM理論を学び、また先生が手がけられた事業再生のお手伝いもさせていただく機会に恵まれました。PBM経営理論が自分の中で少しずつ消化されるにつれて、「経営の王道」の様なものが見えてきました。
幸い、TBC受験研究会以外からのお仕事も、いつの間にか頂けるようになっていましたので仕事が無くなるのではという不安は杞憂となりました。
7.独立3年目(平成18年4月~19年3月)
森井義之先生に師事してから、PBM経営理論に基づくコンサルティングのスキームが身に付いてきました。そこで、自分から積極的に支援先を探すように動き出しました。その活動として最初に行ったのは、東京都を始めとする都道府県政令都市の中小企業支援センターの専門家登録をしたことです。ある自治体では、5年以上の専門家としての経験が必要ということでしたが、ダメ元で相談してみたら、会社員時代の代理店及び子会社の経営助成の実績を通算していただき、登録させていただきました。
また、この頃国や県の中小企業支援助成金を獲得することを条件としたコンサルティングの営業活動を始めました。
(1)知り合いになった中小企業の経営者を対象に、御社でも取れる可能性のある助成金は、これですというような、無料の勉強会を実施する。
(2)中小企業経営者が関心を示せば、各中小企業支援センターの専門家派遣制度で、自分を指名してもらって、スキーム作りや受かりやすい申請書について助言を行う。
(3)申請書の中には、経費の予算として中小企業診断士である私から支援を受けるフィーを計上しておいてもらい、助成金獲得に成功したら、その予算を使って助成事業の目的遂行のためのコンサルティングを、半年から1年間のスパンでさせてもらう。
という、中小企業診断士ならではの助成金や専門家派遣制度を活用したコンサルティングをその年の春先からやり始めました。助成金の獲得率はその年で66%でした。
また、助成金取得を条件としない継続的な支援先ができたのは、その年の後半でした。現在(2008年6月現在)継続してコンサルティングをしている会社さん4社のうち、2社はこの時期から契約がスタートしています。
1社は、さいたま市の専門家派遣制度がきっかけでした。派遣されていって、その時に5ヵ年計画を作成したのですが、派遣期間中の支援で私を認めてくださったようで社長から「計画作って終わりかい?この計画を実現するところまで責任もって支援してくれよ、大石さん」というありがたいお言葉をいただいて、現在も継続して支援させていただいています。
もう1社は、後ほど紹介する自分の応援者の中の、お一人の紹介でした。事業承継で社長が交代するので、新社長の経営をサポートしてほしいというものです。ここでも、お試し期間としてある自治体の専門家派遣制度によって指名していただき、専門家派遣としての支援を行い、派遣終了後に民間対民間で支援を継続するかどうかを判断いただきました。その結果、現在も継続した支援をさせていただいております。
8.独立4年目(平成19年4月~20年3月)
ブログを通して私のことを応援してくださる方の存在が、感じられるようになったのがこの時期です。企業内の中小企業診断士や、中小企業診断士に理解がある方から、仕事を発注いただくようになりました。民間コンサルティング会社や調査会社、研修会社の社員さん、商工会・商工会議所の職員さん、中小企業支援センターの職員さん、財団・社団法人の職員さん、などの皆様が、ご自分の裁量で発注先を決められる場合には、私に声を掛けてくれるようになりました。見返りを求めていなかったブログが、自分を支えてくれている存在になっていたことに正直感激しました。
大きな市場調査の業務を請け負い、後輩診断士5名の方に下請けしていただいて遂行したのもこの時期でした。元請けになってクライアントからの要望を、実際に業務遂行してくれる後輩に伝え、上がってきた成果をチェック、修正するという業務がどれほどたいへんなことなのか経験しました今で私を下請けとして使ってくださっていた先輩方は、こんな思いをして仕事を完成させていたのか、という気づきを得ました。
9.独立5年目(平成20年4月~
平成19年10月の独立開業研究会の講師として、中小企業診断士 エキスパート・リンク(株)代表 藤田隆久さんにお話しいただきました。自分は、一参加者としてお話を伺い、大きな衝撃を受けました。私と年が変わらない中小企業診断士が、これほど大きくビジネスを展開していることに驚きと同時に尊敬の念を持ったのでした。自分は、携帯電話に取り付けたUSBメモリに自分の経歴書を記録させているのですが、講演終了後、懇親会が始まるまでの合間に、近くのキンコーズに駆けて行き、経歴書を印刷して懇親会のその場で藤田さんに渡しました。自分は、こういう人間で、また、こういうスキルとバックボーンを持っていて、今までこういう仕事をしてきた。こういうブログもやっているので是非見ていただけませんか。また、このような自分に藤田さんをお手伝いできるような仕事があるでしょうか。あれば、自分を使ってくれませんか、とお願いをしたのです。
その結果、そのお願いから半年が経過した今、私は自分の大幸経営有限会社を経営する傍ら、藤田さんが経営するエキスパート・リンクのパートナーコンサルタントとして、藤田さんや同じくパートナーコンサルタントの方と3人でチームを組んで、某中小企業のコンサルティングを行っています。また、藤田さんと一緒に、関東学院大学の非常勤講師として学生さんにベンチャー企業論を教えています。間違いなく藤田さんとの出会いが、私の世界を広げてくれたのでした。
10.終わりに~この道をえらんで~
最後になりますが、自分は今、コンサルティングのための訪問や講演終了後、家への帰り道、常になんとも言えない、充実感、達成感を感じています。マズローの欲求5段階説ではありませんが、この仕事をしてから自己実現の欲求が満たされるとは、どのようなことかを知った気がします。迷いに迷って捨てた上場企業経理マンの道でしたが、今はこの仕事を選んで本当に良かったと思っています。
2008年 5月度 熊谷学氏 講演レポート
2008年5月14日に開催されました独立中小企業診断士情報交換会では、熊谷中小企業診断士事務所の代表 熊谷 学さん(41歳)にお話し頂きました。
合格から独立まで
熊谷さんは、アパレルメーカーにお勤めしながら3年掛けて、中小企業診断士を取得されました。資格取得と同時に独立を意識されていたそうです。そのため、取得後すぐに中小企業診断士受験対策本の出版チームに参加されたり、某受験学校の添削講師を副業として始めました。その当時の独立に対する考え方は、「なんとかなる」といった脳天気なものだったとのことです。
研究会も、独立を見据えた2つのものに参加されました。元々所属していたアパレル業界の知識を活かせるファッションビジネス研究会と、この独立開業研究会です。
独立1年目
中小企業診断士試験の合格から1年4ヶ月後の平成18年3月、熊谷さんは勤め先を退職し中小企業診断士としての独立を果たします。退職した翌日からバリバリと活動を始めたわけではなく、数日間は長い会社員生活を送ってきた自分へのねぎらいの意味も込めて、何もしないでぶらぶらしようと決めていたそうでした。ところが、その数日間のリフレッシュ期間が一日一日と長くなり、活動を開始するきっかけを失ってしまったそうです。危機感を覚えた熊谷さんは、そのきっかけを働く環境作りに求めます。事務所を辻井啓作さんが社長を務める、ともえ産業情報のオフィス内に間借りすることにしたのです。
ともえ産業情報さん内に事務所を構えたことで、毎日出社するようになりますし、また、黙っていても、ともえ産業情報さんから仕事のオファーが入ります。ともえ産業情報さんの下請けとして、調査報告書の作成やヒアリング業務によるマーケティングリサーチを手がけます。初体験の仕事につまずいても、同じオフィス内ですので辻井さんやスタッフの方から、すぐに指導を受けることができます。その指導を丁寧に反映させた仕事ぶりは、ともえ産業情報さんのお客様からも認めら、リピートを掴み始めたということです。
受注先は、ともえ産業情報さんだけに留まらず、熊谷さんの独特の営業スタイルによって開拓していきます。その熊谷さんのスタイルとは、手広く営業を掛けるのではなく、少人数のキーマンからの信頼関係を、持ち前の誠実さや人なつこさによって築き上げていくというものです。独立当初というと仕事が欲しくてガツガツしがちですが、熊谷さんは違いました。趣味である格闘技観戦を一緒に楽しんだり、朝まで杯を交わしたりすることに時間を惜しみません。こういうスタイルで独立開業研究会とファッションビジネス研究会の方々や、そこからつながった紹介者と接していきます。非常に狭い世界での営業活動ですのでリスクがあるようにも思えます。しかし、実際にはこの二つの研究会からつながった数人のキーマンは、熊谷さんの人格や性格を把握された上で信頼感を持って仕事を発注するようになります。発注された仕事は、持ち前の丁寧さで確実に仕事を仕上げていきます。
すべてが初物尽くしの業務でしたが、早い段階で事前準備が業務の成否に直結することを悟り、寝る間も惜しんで事前準備を徹底されたそうです。「なんとかなる」という脳天気な思いに加え、「なんとかする」という強い意思を持ち業務に取り組んだ、とのことです。その取り組み姿勢はキーマンに確実に伝わります。一度仕事を発注したキーマンの中での熊谷さんの位置づけは、仕事を任せられる人ランキングの上位を占めるようになっていったのです。
熊谷さんの収入は2年目で退職前の収入を大幅に超えるものになります。しかし、その報酬は多くの顧客から少しずつもたらされたのではなく、たった4人のキーマンからもたらされたものだそうです。某受験学校のテキスト作成、人事コンサルタント会社のヒューマンアセスメント業務、営業研修や創業塾の講師など、幅広い業務を1年目から経験されますが、それらは上記の様に信頼関係を獲得した4人のキーマンからもたらされたものとのことでした。
また、初年度からコンサルティング事業も手がけられます。某中小企業支援センターの派遣専門家として経営計画の策定支援や経営革新計画支援事業に接する機会に恵まれたそうです。この仕事のきっかけも、専門化派遣制度を活用しているものの、最初のきっかけは上記4名のキーマンの内、お一人の方がもたらしてくださったそうです。
独立2年目
2年目に入っても値段にこだわらず、とにかく業務を受ける、受けた業務には誠心誠意取り組む、という指針を持って仕事に取り組まれたそうです。1年目に受注された事業はかなり高い確率でキーマンからのリピートがあります。当然、2回目の仕事は昨年の事前準備や経験を活用できますので、昨年ほど事前準備に時間を費やす必要が無くなり効率化します。また、独立2年目にして、初の年間を通したコンサルティングに取り組む機会も得るなど、確実に業務の幅を広げていきます。
こうして熊谷さんは独立2年目の半ばにして、特定の人からの紹介だけでも食っていけるだけの収入を得られることを実感されたそうです。ただ、そのためには先述の「事前準備」を重要視する取り組み姿勢が重要であるということです。
おわりに
2年間を振り返ってまず思うのは、何よりも独立して食えるようになったことが最大の収穫とのことです。しかし、同時に課題としては、待ちの姿勢でも仕事をいただけるあまり、自ら仕事を創造するための働きかけが弱かったことを上げられています。また、持てる時間の全てを受注業務に投入したために、新たな知識習得に対する時間をあまりつくることができなかったことも上げられています。
現在3年目に入りましたが、その点を意識されて月次で振り返りを行いながら、独立中小企業診断士としての業務に取り組んでいるとのことです。
2007年12月 千田真二氏 講演レポート
平成19年12月19日、独立中小企業診断士情報交換会が行われました。
今回の講師は、有限会社CSビジネスコンサルティングの千田真二さんです。千田さんは現在、研修講師とアセスメントのアセッサーをドメインとされている中小企業診断士です。仕事の受注は研修会社やコンサルティング会社からのものですが、単に講師を請け負うだけでなく、企業のニーズのもと、研修プログラムの開発、教材の作成まで含めて提供され、付加価値の高い仕事にされています。
そんな千田さんに、「研修講師という仕事」というテーマで1時間お話頂きました。お話の概要を紹介させていただきます。
研修講師に必要なこと
(1)心身共に健康であること
絶対に仕事に穴を開けない。もっとも研修会社に嫌われるのは穴空けること。立ちっぱなしが何日も続くこともある。想像以上に体力が必要な仕事。
(2)明るく、元気なこと
受講生のやる気を、かき立てるのが研修講師の役目。講師の仕事は知識を与えることではなく、その気にさせる、励ます、納得させる。それが大前提。
千田さんが研修会社に紹介した人でクレームになる割合が一番多いのが「暗い」ということ。研修講師をやる限り、「暗い」ということは、対人関係を築く努力をしていないと研修会社にとられても仕方がない、という自覚が必要。
(3)言葉にこだわること
書いてあること、話すことの意味を正確に理解し、説明できることは研修講師としての大前提。
(4)自分のテーマを持つこと
研修会社の営業マンが、他の講師ではなく、あなたに研修を依頼する理由は何か。自分で咀嚼して、こういう組み立てにする、自分なりに設計している、そういうものを何種類か持っていること。
(5)カリキュラムを創れること。
研修会社の営業や顧客の依頼を受けて、コース設計ができること。研修会社の営業さんが、顧客から、もやもやっとしたニーズしか持ってこられなくても、千田さんにぶつければ、何らかの形を作ってくれる。その信頼を千田さんは獲得している。その結果、全国の営業マンから直接千田さんにメールでカリキュラム作成依頼が来るほどに。
(6)チームを組めること
コンサルタントは、一匹オオカミパターンが多く、このことが苦手な人も多い。チームが組めるタイプと講師仲間から思われているから、千田さんは講師仲間からの紹介受注も多いそうです。
(7)講師の役割を認識していること
講師の仕事は知識を教えることでない。自分の思いを伝えることである。忙しい一流企業の人が時間を割いて研修を受けに来るのだから、テキストだけでは伝えられないもの、その場に行かないと体験できないことを提供しないと、クレームになるのは当然だ。そういう意味で、研修講師は教師ではなく、場が創れるファシリテーターであるとの自覚が必要。
また、グループ演習などは放置せず適宜関与する。受講生は自分のアウトプットに対するフィードバックを求めている。
そして、研修終了時に振り返りを行い、研修を印象づける。千田さんは、同じ研修を10回やれば、受講生によって最後の振り返りの言葉は10通りになるといいます。
研修会社からの依頼がひっきりなしの千田さん。その秘密は、壇上に立った時の話のうまさ以上に、営業マンの受注率向上に貢献できる商品力・提案力にあることがわかりました。一方で、千田さんは、研修会社の営業マンは、ご自身の営業代行をしてくれていると認識されています。このWIN-WIN関係から生まれる信頼の強さが、千田さんの最大の強みであるということが、今回の講義でわかりました。ここには書けない研修講師としての成功の秘訣も、ふんだんに詰まった1時間でした。
講義中には、過去のコンテンツも太っ腹に回覧していただきました。自分も含めて参加者の方々から参考になったという声が上がっていました。
2007年10月 藤田隆久氏 講演レポート
さて、10月17日(水)に独立開業情報交換会が、新宿にて開催されました。今回のゲストスピーカーは、この方です。
エキスパート・リンク(株)代表取締役
藤田 隆久氏
藤田隆久さんは27歳で経営コンサルタント(中小企業診断士 経営学修士)として独立された方で、支店城下町(大企業の本店が少ない)福岡という地で創業しながら、20代にて年収ウン千万円の収入を得た方です。私と同年代にもかかわらず、その経験、バイタリティ、人生哲学ともに私を遙かに凌駕される方です。そして、今のお姿が納得できる経歴をお持ちの方です。現在は過去の結果であるという言葉がありますが、藤田隆久さんの生い立ちを聞いて、その言葉がまず頭に浮かびました。成功すべきして成功している方という印象を持ちました。
藤田隆久さんは大阪市でお寿司屋さんの長男としてこの世に生を得られました。地元ではなかなかの高級寿司店だったそうで、幼い頃から訪れる経営者を見て、経営者とはどんな人種なのか、肌で感じていたと言います。
お一人で来店されカウンターに座る経営者は、寿司を握るお父上に、会社では誰にも言えないような愚痴や悩みを語りかけたそうです。そんな経営者にお父上は穏やかに言葉を掛けるのでした。すると経営者の顔に笑顔が戻り、寿司をうまそうにつまみ、また来ると言って颯爽と店を後にされたそうです。このお父上と経営者の関係が、現在のご自身のコンサルティングスタイルに大きな影響を与えていると、藤田隆久さんは言います。
そんなお父上の姿を見て、藤田隆久さんは幼いころから商売や経営ということに非常に興味をもっていたと言います。中学生の頃にはテレホンカードのトレードをきっかけにビジネスを始め、大学入学時には1千万円を超す資産を形成されたそうです。中学生の頃から日経新聞やダイヤモンドを愛読していたそうです。そして、中学のころから、自分は将来絶対に社長になると、決意していたそうです。
大学入学をきっかけに上京、当時板橋にお住まいのおじさんの家を訪問するようになります。そのおじさんが中小企業診断士として開業しており、おじさんとの会話の中で、中小企業診断士という存在に興味を持たれたそうです。ただ当時はまだコンサルティングになりたいという意識は無く、将来、社長となって会社を経営するのに、中小企業診断士の知識が役に立つだろうという程度の認識だったと言います。
大学卒業後、1997年4月横浜国立大学大学院 経営学研究科(現:国際社会科学研究科)修士課程に進まれ経営学修士を取得されます。また、大学院在学中に中小企業診断士試験に合格されました。大学院卒業時にはMBAと中小企業診断士の知識を最も活かせる職業として、コンサルタントになることを希望していたそうです。
卒業後、コンサルティング会社に入るための就職活動を始めます。3年経ったら独立するという宣言をしての活動にも拘わらず、数社の内定を得たそうです。その中で、コンサルティングと飲食店を同時に経営している、つまり理論と実践を両軸で行っている会社に魅力を感じ、その中堅コンサルティング会社に入社されました。ただ、その会社は福岡にありました。藤田隆久さんは就職の為に福岡に異動します。
入社早々、理論と実践の内、実践の部分を担当させられ、いきなりあるサンドイッチ屋の店長に任命されたそうです。数ヶ月、試行錯誤の末前年比売上130%という結果を出したことを会社から認められ、新たな命令が下ります。それは、その成功ノウハウをパッケージ化して、フランチャイズとして売り込めというものでした。いきなり、フランチャイズシステムの開発兼営業部長となったそうです。そして、入社2年間までに一人で社の1/3の売上を上げる程になっていたそうです。
2000年8月10日、入社して3年経ったので入社の時の宣言通り退社、経営コンサルタンとして独立します。8月11日から前職のお客さん以外に、名刺を配りまくったそうです。ポリシーとして前職のお客さんを引き継がなかったために、8月は様々な人のツテをたどって営業にあけくれました。にも拘わらず、自ら営業で回った中小企業から契約が取れることは一件も無かったそうです。全てのクライアントは、直接ではなく紹介だったと言います。
前職の社長から、コンサルフィーは月20万円以下で受けるなという教えを受け、それを忠実に守ったそうです。本店が少ない福岡の企業には、月20万円という金額はかなりの負担でしょう。それでも前職で培ったフランチャイズ化を図るノウハウが評判を呼び、飲食業・サービス業を中心に顧客を増やしていったそうです。藤田氏は、ハートによって無から付加価値を創り上げることができる飲食業やサービス業が好きだと言います。
一匹狼のコンサルタントとして、ある程度の成功を30代前半で成し遂げた藤田さんに、ある一つの疑問がよぎるようになります。それは、自分は社長になって多くの人たちと一緒にビジネスをすることが目標だったのに、気がつけば一人で行動し、人で稼いでいる。今の自分は本当に自分が望んだ姿なのか・・・と。
2004年ごろ、東京に支店がある会社の支援の関係で、上京する機会が多くなっていました。そのとき、たまたま日経新聞で横浜市が都道府県・政令市では初の試みとなる株式公開(IPO)志向のベンチャー企業の支援業務にマネージャーを募集している募集広告を見つけます。それも、個人の募集ではなく法人として応募し3名を派遣という条件だったそうです。
中小企業支援センターのマネージャーは、自らも中小企業支援を行いますが、支援センターに登録されている会計士、税理士、中小企業診断士、社会保険労務士等の中から支援先中小企業の特性や問題点に応じて、専門家を選出する仕事を主として行います。時には、複数人の専門家をコーディネートして、チームを編成することもあります。藤田氏は、複数の専門家をコーディネートして、チームで仕事をすることに魅力を感じたと言います。藤田さんは当時関係の深かった法人と提携し、マネージャーに応募します。その結果、藤田さんが参加した法人が受託し、藤田氏は全国最年少のマネージャーとなります。
その後、多くのIPOを志向する中小企業診断士の支援を行い、2006年4月、事業の一部を移管する形でエキスパート・リンク株式会社を設立し現在に至りました。その他、関東学院大学経済学部講師、成長志向のベンチャー企業等の役員、顧問などに就任し、成長企業・IPO(株式公開)志向企業の経営支援を行っているとのことでした。
藤田氏が自分の軌跡を語られる間に、仰っていた言葉で私の印象に強く残っているのは次です。
・今の専門家を見ていて思うことは、人としてのコミュニケーション能力がまだまだ不足しているように思う。独立してやって行くには、少なくとも前職の社員の中で、コミュニケーション能力がトップクラスにないと難しい。
・コンサルタントは答えを与える人ではない。主役は社員。社員からアイディアを引き出したり、押しこむスキルが必要なのは当たり前だが、あくまで社員が答えを創出できるように支援するのが仕事だ。そこを取り違えていないか。
・凡事なくして徹底無し。まずコンサルタントが当たり前のことを、当たり前のように実行できなければコンサルティングは不可能だ。挨拶していますか。お礼ちゃんと言えてていますか。謙虚に頭を下げていますか。そのことを忘れたコンサルティングや専門家が多すぎる。
・士業の決算書の販管費の中に、宣伝広告費はいくら計上されていますか。自分たちがも一サービス業ということを忘れ、自分をお客様に知ってもらうための宣伝広告に努力をしない専門家が多すぎる。
というところでしょうか。
正直自らと比べて、ショックを受けました。森井義之先生がよく仰る言葉で「儲けるのは欲であり、儲かるのは信である」ということがありますが、この藤田さんには「信」が感じられるのです。ご自身の哲学を持っていらっしゃる。その哲学を信じたら、一気に行動する。その結果、若かさなんてことは関係なく結果が付いてくる。自分はどこかで、若さを言い訳にしていなかったか。自分はまだまだ信が弱い。そのことを思い知らされた会となりました。
